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こんにゃく じゃーなる

[シャチョーくん 通信]

日光×蒟蒻屋100年史(前)

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「こんにゃく じゃーなる」読者のみなさんは、すでにご存知のハズ。そう、毎年5月29日は「こんにゃくの日」

 

この記念日は、平成元年に定められたもの。こんにゃくの種芋の植えつけが5月頃に行われることと、「こん(5)にゃ(2)く(9)」の語呂合わせに由来しているんです。

 

そして、今年の529の日はとってもスペシャル♡ 実はシャチョーくんの営むこんにゃくメーカー「北野谷商店」は、今年で創業100年を迎えるんです。

 

ということで、「北野谷商店」の歴史を振り返り〜♪ 「北野谷商店」のある栃木県日光市の見どころも交えつつ、お送りシマス。
 
 

【 創業者・福松の時代:西日本から、ハイソな町・日光へ移住!】


「北野谷商店」の創業は、1918年(大正7年)創業者は、北野谷福松です。日光といえば「いろは坂」が有名ですが、この道、もともとは日光がハイソな避暑地として人気を集め、それにともなう交通量増加に応えて誕生したもの。
 
中禅寺湖へ通じる「第一いろは坂」の開通は大正14年。「北野谷商店」はその7年前から、日光でせっせとこんにゃくを作っているワケです。

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現在、いろは坂には、

第一と第二がアリマス。

 

この福松という男、出身は関西とも高知県出身とも伝えられています。栃木県日光市を選んで移り住んだのはやはり、東京にほど近くありながら、美しい自然溢れる環境に心奪われたから……なんでしょうか。
 
 

【2代目・金次の時代:冬はこんにゃく、夏はデンジャラスな○○屋】


福松のあとを継いだのは、婿殿である金次という男。「背が高くてイイ男」と伝えられており、所謂イケメンだった模様。闘鶏賭博(※)に入れ込むワイルドさもまた、モテ要素だったのかも? ※シャモを闘わせるやつ。当時は合法

 

先に、ハイソな避暑地として日光が栄えたことをお伝えしましたよね。明治中期〜昭和初期の日光は、国際的な避暑地だったんです。各国の大使館が、中禅寺湖畔に別荘を建設。「夏は外務省が日光に移る」と言われたほどとか。

 

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「イタリア大使館別荘記念

公園から眺める中禅寺湖。

 

ちなみに、フランス・ベルギーの大使館別荘は今も使用されており、一般公開されることも。イタリア・イギリスの大使館別荘は現在、「イタリア大使館別荘記念公園」「イギリス大使館記念公園」として親しまれています。

 
この時代に「北野谷商店」が扱っていたのは、こんにゃくだけジャーありまセン。夏は、現在も手がけるところてんに加え、アイスキャンディーも作っていたそう。

 

ここで、当時を知る近所のおじいちゃんの証言を聞いてみましょう。

 

「今みたいに、デラックスなアイスキャンディーじゃなくてね。単に、ドライアイスで冷やして固めたもの。だからが唇に張り付いちゃう。血を流しながら、アイスキャンディーを食べていたもんだよ(わっはっは)」

 

ワイルド金次、ハイソな日光に似つかわしくないデンジャラスなモノ(?!)を販売していたんですね。。。
 
 

【3代目・和一の時代:破天荒にして伝説!ギャンブラー社長登場 】

 

3代目は、金次の息子・和一です。この男、父親以上にギャンブル好き。電車賃まで賭けてしまい、宇都宮から日光市内の自宅まで歩いて帰ってくることもしばしば。仕事用の自動三輪を質入れし、その金で競輪に行ったなんて伝説まで。

 

しかし、こんにゃく作りだけはとっても熱心。戦争で招集され、海上で左脚を撃たれて帰国した後も、おいしいこんにゃく作りのため、日々研究を重ねていたそう。

 

39歳という若さで他界していますが、こんにゃくの配達を無事終えた直後、急に倒れて帰らぬ人となったとのこと。きっと彼は、ギャンブルと同じぐらい、心からこんにゃくを愛していたのでしょう。。。

 OLYMPUS DIGITAL CAMERA「日光田母沢御用邸公園」は、

四季を楽しめる庭園も。

出典:wikipedia

 

和一が社長であった戦時中、日光は現在の天皇陛下の疎開先となっていました。日光市の「田母沢御用邸」は、そのひとつ。現在は「 田母沢御用邸公園」となっており、江戸・明治・大正と3時代の建築様式をもつ集合建築群として、多くの観光客が訪れています。

 

日光でコツコツと営んできた、一介のこんにゃく屋「北野谷商店」。ですが、こうして100年の歴史をひも解いてみると、そこそこ波瀾万丈だったんですね。。。

 

さて、破天荒な和一社長亡き後、「北野谷商店」の運命やいかに?!(後編に続く)